24歳の時、リュック1つだけを背負って一人で訪れた中国・広州は、日本の報道で見るのとは、何もかもが違っていたとChikaさんは言われました。
それ以来、生地やボタンの輸入、広州の日系工場での工場責任者、上海の日系スーパーでバイヤーそして、現在は日本の美容ブランド「Iapetus」のプロデューサーとして、ずっと日中間との仕事を続けています。
Chikaさんの人生観を変えた、「13の法則」
Chikaさんが広州の日系工場で仕事をしていた時、同僚から言われた
「中国の人口は日本の13倍だから、幸せも嬉しいも13倍、悲しいも辛いも13倍、でも努力を13倍すれば、成果や選択肢も13倍になる」という言葉に大きな衝撃を受けたと言われました。
Chikaさんは同じ仕事をするのなら、自分の努力が「13倍」になる中国とのビジネスで満足感を得たいと思われたのです。そして中国製品マニアの彼女が今後挑戦ことは、中国の美容製品を日本で普及させることです。数年後の日本には必ず「華流」が来ると考えているそうです。約20年にわたる日中間の仕事で、市場全体の動向の変化、中国経済の発展も体感されてきたChikaさんにお話を伺いました。
ニーズからビジネスへ:ペットのアパレルブランドの立ち上げ
私は一般家庭に生まれ、母一人子二人の家庭環境で育ちました。
母の考えはとてもユニークで、幼い頃から「世界は広いから、外に出て多くを見なさい」と言われ育ってきました。
母の言葉の影響もあり、大人になったら海外で働きたい、海外に関わる仕事をしたいと思うようになりました。
高校を卒業し、航空業界を志し、客室乗務員などの専門学校に入学しました。私が就職活動をしている最中に9.11米国同時多発テロと重なり、世界中の航空業界は大きな影響を受けました。就職活動をしたものの、ほぼすべての航空会社が募集を停止。そして目標を変え、渋谷区松濤にあるホテルへフロントスタッフとして入社しました。
24歳、新たな目標を見るける
当時、ペットショップなどでは、犬の洋服が売っていても、サイズ展開が少なく、我が家の犬にピッタリ合う洋服が見つからなかったのです。例えば、トイプードルとダックスフンドは同じ小型犬ですが、洋服のサイズが全く違います。これはもしかして、1つのビジネスチャンスなのかと思い、当時の犬の洋服のサイズ展開などを調べてみると、S,M、L、着丈が長いS、M、L、と日本にいる犬種とサイズ展開にズレがあると気がつきました。
きっと私がピッタリな洋服が欲しいと思っているのだから、他の人も欲しいはず。思い切って友人3人でインターネットショップから犬のアパレルブランドを設立。1年後、船橋ららぽーとに店舗を出店。スタッフ5人でデザインと生産、販売までを行いました。
ペット服の縫製はとても細かく、パーツ数がとても多く、工程数を省くけないので、縫製は日本国内で行いました。少しでも原価単価を下げることを考え、生地やボタンなどの資材を中国から調達するようになりました。
ペット服業界にも明確な閑散期があり、ゴールデンウィーク後から9月頃まで売上が大きく落ち込みます。真夏に犬には洋服を着せないし、暑いので犬とお出かけが一気に減るのです。
お店を維持するために、ペット服の製作以外にも、日本のアパレルブランドから、バッグなどのOEM生産や、中国や韓国のアパレル資材などの調達を引き受けました。
通常は、中国現地の商社や仲介業者などと取引をし、日本へ輸入をしますが、少しでもコストカットをするために、中国のアパレル資材市場を回り直接取引をしました。
中国語は話せませんでしたが、私には私なりの流儀を見つけるのだと市場中を回りました。
知識がないからこそチャレンジできた無謀な中国仕入れ
2005年に初めて中国・広州に行ったとき、私はリュック1つだけで行きました。
友人から日本語の通じるOEM工場を紹介してもらい、ペット服以外のアパレル雑貨のOEMの仕事を多くいただくようになりました。
ペットアパレルブランドとアパレル雑貨のOEM業が順調になり始めた頃、2011年の東日本大震災が発生。以後、計画停電で行動の変化や経済活動の低下、嗜好品に近いペットの洋服の需要は減り、売上げも大きく減少しました。
徐々にペット業界でのブランドと私の知名度も上がり、私にとってはいい時期でしたが、店舗のあったビルの建て替え時期でもあったので、2012年に会社を解散しました。
そして、このビジネスをきっかけに、中国の人と知り合うことが増え、いろいろな刺激を受け、会社の解散を機に、次の目標を探し始めました。
理解から反省へ。 メイド・イン・チャイナで学ぶ「不屈の精神」
今までの中国での経験を活かし、広州の靴のOEM工場の商品企画と工場責任者として働き始めました。
月に1週間は日本でブランドと商談、3週間は広州に出張し、サンプル制作、商品生産をしました。
駐在ではなく出張ベースではありましたが、海外で現地の人と仕事し、生活をする機会を得ることができました。そして、この時期にさまざまな中国の人と接し、ステレオタイプではない中国を知り、いろいろな経験することができました。
工場では来日も留学もしたことのない日本語を上手に話せる中国人のスタッフに多く出会いました。スタッフの一人は、日本語の教育費は地元の村をあげて負担してもらい、勉強をしたと聞き、驚きました。彼女は村で一番の才女だったようで、村の希望を一身に受け広州の工場で働き、けして多くない給料の9割を村へ仕送りしていました。
好意にあふれた中国人スタッフにもたくさん出会いました。
私の給料日にみんなにランチをご馳走しようと弁当を差し入れしたのですが、昼の休憩が終了すると、スタッフの皆が弁当代を私のデスクに置いていました。工場から支給される昼食を食べるとお金もかからないのに、私が勝手に弁当を差し入れしたことで、予定外の出費をさせてしまったと深く反省しました。
100名以上の中国工員の中で感じる心の違和感、体感する不屈の精神
多くの中国の工場のスタッフはとても勤勉でパワフルでした。物質的な面では、日本が上回っていましたが、日本人として物足りなさを感じていました。それは農村出身の中国人スタッフに比べると恵まれすぎている生い立ちの中、考えもしなかったハングリー精神のようなものが私には欠けていたのです。
成功をアメリカン・ドリームと例えるのならば、私はチャイナ・ドリームがここにはあるのだと確信しました。
そして、私の日本が上だと思う感覚を恥、工場での仕事のやり方を変えていきました。
日本の仕事のやり方を強いるのではなく、中国での仕事のやり方や習慣に合わせ、日本の本社と広州の工場の真ん中に自分を置きバランスをとるようになりました。
日中間のバランスが良くなってくると工場内の雰囲気や生産性が上がりました。
信頼からWin-Winへ。私オンリーワンの働き方スタイルに磨きをかける。
2015年頃から日本製品が中国で人気を博し始め、その年の日本のニュースでは「爆買い」という言葉が頻出に耳にするようになり、この年は越境元年と言われてます。
友人の紹介で、越境ECサイトと上海の日系スーパーマーケットの日本製の美容商材、健康食品などのバイヤーとして日本の企業で勤め始めました。これをきっかけに、美容・健康商材業界に足を踏み入れたのです。
バイヤーとして上海支社に通い始めた頃、当時日本のWeChatの公式アカウントがないことに気づき、上海支社と提携しWeChatの公式アカウント運営の代行も始めました。中国ではまだまだオフラインの活動の重要性を感じ、上海の街中でWeChatの公式アカウントの宣伝イベントなど行いました。中国では遠回りをしてでも地道に宣伝しながら、新しい方法を試す。このトライアンドエラーの繰り返しブランディングをしていくのが、最短ルートだと確信しました。仕事に必要なのは結果と成果であり、それに向かっていく方法は私の流儀で良いと社長からのアドバイスもあり、私の流儀でのびのびと結果に向かっていきました。それは広州の工場での働き方と同じで、中国では中国に合った方法でやればいいのです。
現地で毎年体験する「独身の日」から新たな目標設定
上海へ通う仕事も慣れてきた頃、私自身の結婚出産を考え始めました。上海への出張も多く、日本の事務所に出社していても、業務の相手は上海と日本のクライアントなので、必ずしも日本の事務所に毎日出社する必要はないと思い、週2日の出社の在宅勤務をすることになりました。当時ではまだ珍しい働き方でしたが、成果主義の社風だったのであっさりと受け入れてもらうことができました。
日本製の爆買い、越境ECブームがひと段落した頃、私は新たな目標を見つけました。
それは1つのブランドと向き合い、中国に広げていく。当時の私はバイヤーだったので自分のブランドではなく、ブランドをお預かりしている立場でした。各ブランドの担当者さんなどの商品への熱い思いなどを接し、いつかは私のブランドとして中国に売り込みたいと新しい目標を立てました。
新たな出会い「Iapetus」
日本のブランド「Iapetus」と出会い、現在の仕事を始めました。
当時は日本の医療機関専売品ブランドだったため、一般流通がなく無名なブランドでした。製品はとても良いのだけど、ドラックストアーなどで見かけないブランドを中国に売り込むのは大変なことでした。
当初は、いろいろな方法を試しました。その中で中国では中国語のブランド名が重要だということがわかりました。私たちのブランドは日本では「Iapetus(イアペトス)」と呼ばれていますが、中国のお客様には覚えにくく発音がしにくいのです。そしてブランド名から日本の商品だとわかってもらうのはとても難しかったのです。
中国でのブランドの認知度を高めるため、中国名を「小野拓司」を新たにつけました。
自分の流儀を確立
現在の私達のビジネスモデルは新しいスタイルで、中国に総代理店があり直接契約を行いました。一般的には、日本企業が中国で商品の販売を行う場合、上場企業のように自社で中国進出するか、日本企業を経由し中国企業に売り込む、もしくは在日中国人を代理店として卸販売を行うことも多いです。
私達のように、中国企業などと直接、総代理店契約を結ぶことは大変リスクが高いとされています。
もちろん信頼関係を築くまで、総代理店と大喧嘩もしました。しかし中国の総代理店は中国市場をよく理解しています。私は今までの経験から得た、日中のバランスのとり方、中国では中国の方法を理解し、お互いが納得し合うまで話し合うことで、Win-Win結果を見つけ出すのです。
日中間で共通テーマを、お互い理解できる言葉で作る
私たちの製品のテーマの「メラニンの生成やシミができるメカニズムを断ちたい」という思いを、総代理店に理解してもらう為に何度も説明をしましたが、なかなか上手く理解してもらえず、その時「黒(メラニン)を断つのだよ!」の簡単に説明をした言葉がしっくりきたようで、私たちブランドの概念として「断黒」という言葉が生まれました。今では中国国内で、美白という言葉と並んで、「断黒」という言葉が美容の一つの概念として使われています。私たちの製品が広まっていく中で、「断黒」という言葉が中国の人に受け入れられ、「断黒」と書かれた中国の美容商品を見ると、嬉しくもあり、悔しくもあり、一つのトレンドを生み出せた満足感もありと、複雑な気分を楽しんでいます。
今の仕事の最大のモチベーションは、良い製品をより多くの人に知ってもらうことです。2018年、中国の女優の秦岚(QinLan)さんが私たちの製品のM.D.Rを愛用しているとSNSやニュースが流れたとき、瞬く間にM.D.Rが大ヒットしたのです。
日本市場でM.D.Rの売上が順調に伸びていましたが、中国市場の爆発的な売上の伸びは予想外でした。
これも私の口癖である「中国は日本の13倍」の成果でした。
近い未来予測:韓国ブームから中国ブームへ
2005年から現在に至るまで、日本や中国の市場で多くの変化を感じています。私が初めて中国に行った2005年当時、世の中にはiphoneが無くSNSやチャットアプリもありませんでした。しかし今は、中国は世界で最も電子決済が便利な国になっています。数年前にアリババの本社のある杭州に行ったとき、商品を配達してくれるロボットなど日本にデジタルサービスがありました。
中国は現在、中国で製造される化粧品などに関する法律や薬機法が非常に厳しくなり、品質がとても良くなってきています。日本では、まだ中国製品に不安を感じる人が多いようですが、いずれは人々の意識は変わっていくのだと思います。そして今後、中国コスメが韓国コスメのよう日本国内で流行するのが楽しみです。
日本と中国の両方の市場を知っている人間として、中国の良い製品をより多くの人に紹介することができるようになるでしょう。
コロナ禍で見つけた、私だからできる新たな目標。
2020年のコロナ前までは、海外出張が多く現地に行くことで自分の流儀や自身の仕事の価値を見出してきました。しかし渡航ができなくなり、今までのような仕事ができず、苦悩の毎日でした。そんな中、ある出会いがあり、自分の流儀と価値を最大限に活かせる場所に辿りつきました。その出会いとは、日本に暮らす中国人の方々です。彼女たちと一緒にいるとコロナ前までの自分に戻ったようで、自分が生き生きしていると気がつきました。私の大好きな中国と彼女たちをもっと知って欲しい。その思い出Webメディア「She China」を立ち上げました。
「She China」(她 是/在/和 中国)彼女は中国人、彼女は中国にいる、そして彼女と中国。中国というものに関わる全ての人のことを表現しているサイト名です。
今は、日本にいながら、中国企業で働いているような毎日。これこそ私の流儀と価値が輝く場所なのだと実感しています。
まだまだ、中国嫌いの人も多いです。その方々に好きになってとは言いません。少しだけ今の中国を知って欲しい。ただそれだけです。
She Chinaを通して、少しだけ中国の事を知ってもらい、生活の中で接する中国の人へ、少しだけ口角を上げてくれたら、私のShe Chinaでの目標は達成です。