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She STORY

名門校出身、東京に移住し「保険を売る」|鲁一冰:常に愛し、常に信じる

上海外国語大学ラジオ・テレビ・ジャーナリズム専攻、英語専攻

香港中文大学グローバルコミュニケーション修士課程修了

香港の大手保険会社でマネージャーとして勤務

現在、日本で保険コンサルタントとして勤務

大学院進学に失敗し、香港中文大学へ。

愛する人のため仕事を辞め、見知らぬ国へ。

独学で日本語を勉強し、業界の専門試験を受け、社会貢献を第一に考える。

「私はルールに従う人ではありません。」

「自分の気持ちに従います。」

いつも”目の前のことに精一杯”だったことが、

彼女を次の広い世界へ導きました。

予定はない:自分の気持ちに従う

Q: 現在は日本でご活躍されているとのことですが、日本語を専攻ではなかったのですね。

A: 上海外国語大学では放送ジャーナリズムと英語の2つの学位を取得しました。日本語を勉強したのは、純粋に興味があったからです。

小学校の先生が名探偵コナンの本をくれたのが、今思えば、日本に来る最初のきっかけだったのかもしれません。中学を卒業してからは、日本の探偵小説に夢中になり、テレビドラマ金田一少年の事件簿を夜中まで見ていました。日本語を学ぼうと小さな個人塾に入ったりもしましたが、まさか自分が日本に来て生活し、働くことになるとは思ってもいませんでした。

学部卒業時に日本へ旅行

Q: 大学卒業後は香港に留学し、就職。その後日本に来たとお伺いしています。一般的な進路と大きく異なる道に進まれたわけですが、どのように計画を立てられたのか教えていただけますか?

A: 大学卒業後、香港の大学院に進学し、保険業界で働くことになるとは学部生の頃は考えてもいませんでした。学部生の頃は、国際的な慈善団体のボランティアに参加し、自閉症の子供たちや出稼ぎ労働者の子供たちのための支援などをしていました。また、大学2年生の時には交換留学でニュージーランドに行ったり、アメリカの選挙の時にはホワイトハウスでインタビューをしたりと、色々な世界を見る経験をしていました。

米大統領選 ホワイトハウス・インタビュー

とても楽しく充実した大学生活を送っていましたが、卒業後の進路に関してはあまり考えず、「この大学の大学院進学は保証されている」と何の根拠もなく考えていました。しかし、大学院進学の面接で失敗してしまいました。 大学院の結果が発表された日は私の誕生日で、まるで神様が教訓を与えてくれたかのようでした。

上海外国語大学卒業

締切ギリギリで応募した香港中文大学のTOP5プログラムに入学でき、 在学中は半年間NGOでボランティアとして活動し、自分の研究の方向性を見つけました。

香港留学中

香港の名門大学卒業生が保険を販売

Q: ジャーナリズムを専攻した人の多くはメディアや企業の広報部門などに進むことが一般的ですが、なぜ専攻とは異なる保険業界に進まれたのですか?

A: 香港はアジアの金融ハブであり、世界で有数の成熟した保険市場の一つです。 新卒で保険業界に飛び込もうと決心した時、家族からは反対されました。

“保険を売る”というのは多くの人が見下す業界ですが、それはなぜでしょうか?

私たちの業界には、「家族以外に、あなたに一番生きていてほしいと思っているのは保険会社だ」という言葉があります。

保険会社を憎むとき、私たちはいったい何を憎むのでしょうか?アジアでナンバーワンの保険市場についてもっと知りたいという好奇心が私を大きく動かしました。

Q: その時の選択が、その後のキャリア形成に直結しているわけですが、保険という仕事は、多くの人が「たたき台」として扱います。香港で長年保険業に携わり、その後も日本で保険業を続けているというのは、どうしてでしょうか?

A: 当時も今も、自分の選択は間違っていなかったと思います。帰国子女以外にも、香港のフェニックスTVの金融キャスターや中国人民政治協商会議(CPPCC)のメンバー、世界のチェーンブランドの香港・マカオ総代理店など、業界の大物が何人もいて、この業界に入ってからたくさんの優秀な方々に出会いました。

香港の名医と提携

彼らは、独自の考え方や物事の進め方があり、私の仕事に対する姿勢に大きな影響を与えました。もし他の業界に入っていたら、新人の私がこのようなチームで働く機会を得ることは難しかったと思います。

保険営業は私の仕事内容の一部で、顧客のニーズに応じて金融サービスを提供することに重きを置いています。多くの人は、物を売ってお金を稼ぎたいから保険業界に入り、1、2年で辞めてしまいます。

私は自分の信念を貫き、自分の仕事で人を助けたいと思っています。色眼鏡で人を見ないように心がけ、私を信頼してくれる人を惹きつけたいと思っています。

新人研修

日本にいる今でも、多くのお客様にサービスを提供しています。お客様の人生のステージを見届け、共に歩んできた信頼と達成感が、私のやりがいです。

振り返らない:愛と憎しみー日本に変化をもたらし続ける

Q: 日本に来たきっかけを教えてください。

A: 愛です。 いつから結婚や出産に一線を引いのかはわかりませんが「28歳までには子どもを産みたい!」と思っていたこともありました。

当時お付き合いしていた人は、人生のあらゆる面で相性が良く、会話も弾んだ友人の中から選びました。私は香港、彼は日本で仕事をしていましたが、新型コロナウイルスの流行で頻繁に会うことが難しくなりました。そこで、私は迷うことなく仕事を辞め、彼の居る日本へ飛びました。

しかし、半年も経たないうちに私たちの関係は破綻してしまいました。当時はまだ感染症の流行の最中で、私は香港に戻らず、日本で働くことを選びました。

Q: 破局後、馴染みのある母国に帰った方が生活しやすいと思うのですが、日本に残った理由を教えてください。

A: 彼と別れることを決めたとき、彼に自分の人生を左右されたくないと思いました。

日本には彼との破局という嫌な思い出が残りましたが、私は日本文化が大好きです。 日本は矛盾した社会であり、外国人への偏見と寛容、社会システムによる抑圧とニッチな文化による自由を併せ持っています。

好奇心旺盛な私は、社会的アイデンティティを捨て、個人的アイデンティティを追求するために、今のところここが気に入っています。

Q: 今後の日本での生活や仕事についてどうお考えですか?

A: 私は人と接することが好きで、人と人とのつながりや信頼関係を大切にしています。私にとっては物質的なものよりも精神的なものの方に満足感を感じます。

周囲を助けられるような利他的な人間でありたいと思うし、この業界で個性ややりがいを持ち続けたいと思っています。

日本市場は、香港の国内市場よりもはるかに複雑です。私はこの国での留学経験も職歴もなく、日本語は子供の頃に独学で学んだ程度で、日本の企業に入りました。会社が私に期待しているのは、日本の古い顧客を維持するだけでなく、中国の新しい顧客を開拓することです。

私が外国人であることを毛嫌いする日本人もいます。しかし、中にはとても優しく、家族のことを話してくれる人もいるし、新しい友達もたくさんできたし、新しい契約も取ることができました。

次は、この業界のメンタルヘルスの面をもっと掘り下げて、新しい可能性にも挑戦してみたいと思っています。最近は、カウンセラーと共同で活動をしています。クライアントからのフィードバックは、私と一緒にいるととても快適で、斬新なアイデアを期待されているようです。

香港勤務中の中国本土医療機関との協力関係

ジャーナリズムとコミュニケーションの専門であったこと、ボランティアとしての経験、そしてさまざまな人々と接したフィールドワークの経験が、今の仕事に活かされています。

今はまだその時期ではないかもしれませんが、将来的には再び学校に戻り、自分の研究テーマを見つけるために学業を続けるかもしれません。

NUESEの言葉

彼女が保険のセールスマンだと知ったとき、私は少し偏見を持ちました。

しかし、言葉の節々から彼女の誠実さと前向きさを感じ、何度も心を打たれました。

何度も立ち直り、挑戦してきた経験が、みんなに希望を与えることを願っています。

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